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トリバンドラム

ケララ州に戻った私は、コーチンに戻る前に、トリヴァンドラムに滞在することにした。

トリヴァンドラムはケララの州都ではあるものの、小ぢんまりした印象を受ける街だ。
バスの移動が続いて疲れが溜まっていたので、安宿はやめて中級のビジネスホテルに泊まることにした。

ホテルのフロントには、細面で神経質そうな雰囲気の男性マネージャーがいた。
料金前払いのシステムだと彼が言うので、私はインドにおける最高額の紙幣1000ルピー(2019年現在は廃止)を出した。


「!!!」
マネージャーの顔色が変わり、他の細かい紙幣がないか聞いてきた。
どうやら、お釣りが足りないようだ。
「ノー。これしかないです」
私は首を振った。
しかし、これは演技である。
本当のことを言えば、私は細かい紙幣を持っていた。
とぼけて出さなかったのだ。

この1000ルピーは、とても使いにくい紙幣だ。
航空機や鉄道のチケット、そして宿代といった大きな買い物の支払いでしか使う機会がない。
日本の紙幣には存在しないが、使っていて5万円札や10万円札のような感覚があった。
インド国内における普段の買い物は、100・50・10ルピーの紙幣で用を足すのがほとんどである。
その中でも最も使い勝手がよかったのは10ルピー札だった。
食事、リキシャーの運賃、チャイ、ミネラルウォーターなどを買うとき、とても重宝するのだ。
だから1000や500ルピー札が自分の所に廻ってきたら、できるだけ早く手放そうとするし、逆に10ルピー札は常に自分の手元にストックしておくよう意識していたのだ。

「そうですか・・・わかりました。お釣りを用意するまで少し待っていてください」
マネージャーが、ロビーの隅で控えていた小柄の中年男性を呼び出した。
この男性は、ラフな身なりから雑役夫と思われた。
「すみませんが、至急両替に行ってもらえませんか」

ここで雑役夫が、まさかのリアクションをする。
「そんなの無理だよ。嫌がられるのに決まっている。俺は行きたくねぇな」
現地語での会話だったが、彼は明らかに両替に行くのを渋っているのが見ていてわかった。
「行ってください」
「嫌だね。他の奴に頼めないのか?」
しばらく両者は押し問答をしていたが、とうとうマネージャーの堪忍袋の尾が切れてしまった。

「あんた、俺の言うことが聞けないのか!」
インド人がマジ切れするのを見たのは久し振りだ。
「今すぐ両替に行け。今すぐだッ!!」
そんなにヒステリックに叫ばなくてもいいのに、と思うくらいの大声だった。
雑役夫は飄々として聞いている。
「わかった、わかった。行けばいいんでしょ」
柳に風と受け流している。

緊迫した状況のはずだが、漫才やコントのように見えてしまう。
傍から見ていると、面白くてしょうがない二人のやりとり。
私は不謹慎ながらもニヤニヤした表情をしながら、事の推移を見守っていた。
雑役夫は私と目が合うとニヤッと笑い、ウインクをして出て行った。
「今の見ていただろう?参ったぜ」と言っているように感じた。

15分ほどロビーで待っていると、雑役夫が戻ってきてマネージャーに両替を渡した。
私がマネージャーから受け取った釣銭は、ホッチキスで無造作に止められた10ルピーの札束だった。
あれば便利な10ルピーだが、なんとも極端である。
こんな過剰さが、たまらなくインド的だ。


ホテルでは一悶着あったが、その後は変わったことも起きず食事を終え、就寝。
翌日になって急に気が変わり、コヴァラムに寄る事にした。
トリヴァンドラムからバスに乗って小一時間で行ける、ビーチリゾート地だ。
ここも以前に長期滞在したことがある所だった。

コヴァラムに着いて宿探しをするのだが、ピンと来る部屋がなかなか見つからない。
ウロウロしていると、客引きの男が寄って来て「いい宿があるから、俺について来い」と言う。
面倒くさくなっていた私は、男に言われるままついて行くことにした。
表通りから中に入り、細い小路を抜けると中庭のような広場があり、コテージが6個並んでいた。
とても静かな環境で、長期滞在に向きそうな宿だった。
別棟に調理場があり、キッチンや冷蔵庫を自由に使えるので自炊もできる。
私は一発でここが気に入り、泊まることを決めた。
客引きと思っていた男は、宿の管理人だった。

宿に荷物を置いた私は、海辺を散策することにした。
砂浜を歩いている最中に、違和感を感じた。
ズボンの中に入れているマネーベルト、貴重品を入れる腹巻。
いつもより軽い。
胸騒ぎがした。
手を入れてみても、あるはずのものがない。
命の次に大切な、パスポートがない。



 

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