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鉄道の旅

 インド西海岸にはヒッピーの聖地ゴアと国内最大の商都ムンバイがある。

 東海岸から南インドに入り、これらの町に立ち寄るのはルートから考えて、当然と思われた。

 結果的に両方の町を避けて移動することになった。

 ゴアのビーチは麻薬の取り締まりが厳しくなった影響で活気がなく、

ムンバイは物価高で安宿そのものがない、と聞いていたからだ。

 

 私は内陸部のデカン高原を縦断することに決めた。

 その前に南インド内陸部のハンピに立ち寄ることにした。

 この辺鄙な田舎村は、長期旅行者の間でとても評判がよかったのだ。

 長期旅行者が口を揃えて勧める観光地は信頼性が高く、ハズレが少ないと感じていた。

 

1999年5月1日

Hampi, Karnataka, India

 実際に現地へ来てみると、やはり情報は正しかった、と納得する素晴しい景観だった。

 ハンピは捨てられた遺跡の中に村がある。

 さらに村の周囲には巨石がゴロゴロと転がり、異様な景観を呈していた。

 ここはインド人にも人気の観光地のようで、団体客の姿が目についた。

 

 そして何よりも、村人たちが醸し出す雰囲気がとても自然でよかった。

 なんと遺跡が村人の生活スペースになっているのだ。

 遺跡の中で子供たちが遊び、女性達が井戸端会議をやっていた。

 村人達は遺跡と共に生き、やがて死んでいくのだろうな。

 諸行無常だ・・・

 彼らを見て、そんな感慨に浸るのだった。

 

 

 ここハンピで、一人の日本人旅行者に出会った。

 彼は南米旅行を経験しており、私に多くの情報を与えてくれた。

「ペルーは良い所だ。治安は悪いとは感じなかった。問題ないと思うよ」

 彼にそう言われ、一度は諦めた南米への憧れが再燃してくる。

 

 

 私は鉄道に乗り、デカン高原をさらに北上することにした。

 当時の鉄道は蒸気機関車が主力だった。

 煙突から白い煙を吐き出し、列車は進んでいく。

 汽笛の音が聞こえてくる。

 車窓からは、どこまでも続く綿花畑が広がって見えた。

 

 鉄道の旅は楽しかった。

 車内のチャイ屋には釣銭をごまかす不届き者がいたが、乗客は誰もが親切で穏やかな人ばかりだった。

 商売人ではない一般庶民と会話していると、インド人の本音が聞こえてくるようだった。

 

 私の隣に座っていた若者は好奇心を抑えられず、外国人の私に質問の嵐を浴びせてきた。

「名前」「職業」「年齢」「結婚しているか」と聞かれ、一つ一つ答えていく。

 

 すると今度は「日本の自動車の値段」を聞いてきた。

 私は日本の円をインド通貨のルピーに換算して伝えてみた。

「自動車の値段は1台100万円と仮定して、約35万ルピーかな」

(注:当時の為替レート 1ドル=約120円、1ドル=約42ルピー)

 私は 350000RS と紙に書き、彼らに数字を見せた。

 

「信じられない」

 周囲から驚きの声が上がった。

 地元のインド人から、肉体労働者が一日に手にする金は約70ルピーである、と聞いていた。

 これでいくと、10年以上毎日働かないと稼げない計算になる。

 しかも1ルピーも使わずに貯金するとの仮定である。

 35万ルピーは、彼らにとって途方もない大金であった。

 

 私の近くの席に、新婚と思われる夫婦が向かい合って座っていた。

 通常は6人座れる座席に、彼ら2人しか座っていない。

 これは普通の状況ではない。

 ここインドでは、普段なら10人は座ってくる状況なのである。

 空いているスペースがあれば、荷物棚にまで乗ってしまうインド人たちが、誰も二人の横に座ろうとしないのだ。

 

 理由はすぐにわかった。

 新婚夫婦は見るからに幸せな顔をしており、二人の世界を邪魔しないでおこうと周囲が気遣っているのだ。

 

 ある駅で一人の乞食が列車に乗ってきた。

 その乞食は盲目の少年であった。

 インドのマフィアは故意に乞食の手首を切り落としたり、目を潰し見えなくするという信じがたい話がある。

 悲惨な姿の方が周囲の同情を引き、より多く稼げるからだ。

 少年もそのような乞食だったのかもしれない。

 

 そして少年は歌を歌い始める。

 美しい伸びのある声と印象的な抑揚で、神を讃えていく。

 日本人の私には歌詞の内容は理解できない。

 しかし聴衆の表情で、それが神への讃歌だと確信できるのだ。

 歌を聴いて鳥肌が立つ経験は、そうあるものではない。

 少年の素晴しい歌声は、感動に値するものだった。

 

 歌を終えた少年の胸ポケットは、乗客たちの小銭や紙幣でたちまち一杯に膨れ上がった。

 私も奮発して、10ルピー札を少年のポケットに入れた。

 

 

 さまざまな乗客の思いを乗せ、列車は次の目的地に向け走っていく。

 鉄道の旅は続く。

 

 

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