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ある事件

1999年5月6日

Aurangabad, Maharashtra, India  

 

 鉄道列車はアウランガーバード駅に停車した。 

 ここは世界遺産のアジャンタとエローラ観光の拠点になる町だ。

 私は列車を降り、周辺の観光を始めることにした。

 エローラのカイラーサナート石窟寺院を訪れてみたが、一見普通の寺院に思えて何がすごいのかピンと来なかった。

 

 「・・・ONE STONE CARVING・・・」

ガイドが観光客に英語で寺院の解説をしている。

 一つの石、彫刻・・・「ハッ」と閃き、ガイドブックに書いてあった記述を思い出す。

 たった一個の巨大な石から世代を越え、気が遠くなるほどの年月を

かけ、現在残っている壮麗な寺院群を作り上げた人達がいたのだ。

 最初に工事を始めた職人は、自分の代で完成できないことを知っていたはずだ。

 どんな気持ちで彼らは彫り続けたのであろうか。

 考えれば考えるほど気が遠くなるスケールの建築物だ。

 これがインド特有の悠久の時間の流れというものか・・・

 余韻の残る素晴しき石窟寺院であった。

 メジャーな観光地は好きではないので気乗りがしなかったが、来て正解だった。

 

 旅は順調に進んでいた。

 アジャンタとエローラ観光を無事終え、私はバスを乗り継いでいく。

 西海岸の港町スラトまでは、乗り合いのマイクロバスで移動することになった。

 インドではバス移動が長距離に渡る場合、間にトイレ休憩を何度か挟みながら目的地まで行くのが一般的だ。

 バスは日没前に到着すると聞いて安心していた。

 スラトへ向かう移動は何の問題もないと思われた。

 

 ところが、移動中にある事件が起こった。

 

 その事件には予兆があった。

 出発していきなりバスのエンジンが故障し、修理のため一時間の足止めをくらってしまう。

 時間を持て余す乗客たちはバスの側でチャイを飲み、修理の進行状況を見守っていた。

 そのうち乗客だった一人の中年男が、近くのオープンテラスの店で酒を飲み始めた。子連れだったらしく、男の横には息子と思われる少年が一緒に座っていた。

 

 バスは修理を終え再出発したが、男は休憩の度に飲酒をしていた。

 男は酔いが回っているのか、自分達の置かれている状況を把握していない。飲食店の従業員と長い世間話を始め、なかなか車内に戻ってこないのだ。

 この男のせいで、なかなかバスが出発できない状態が続いた。

 困った男だった。

 

 バスの到着時間は次第に遅れていった。

 まったく、やれやれ、だな。

 最初は、その様子を半ば諦め顔で見ている余裕があった。

 やがて、この調子では一体何時に到着するのだ、と余裕のない顔に変わっていき、貧乏ゆすりをする程イライラしていった。

 

 他の乗客達も同様だったようで、周囲の苛立ちが私にも伝わってきた。

 度重なる遅延でとうとう日没し、休憩時間に乗客の怒りは頂点に達した。

 

 女性二人が大声で怒鳴り始める。

「アンタのせいで、こんなに遅れているんだ」

「いい加減にしろ、この野郎」

 女性達は腰のベルトを抜き、鞭のようにベルトを振り回し男を打ちつけた。

 酔った男は無抵抗で、ひたすら女性達に打たれ続ける。

 男の息子は女性達に罵倒される父の姿を黙って見つめていた。

 悲しい目だった。

 

1999年5月7日

Surat, Gujarat, India

 

 一悶着のあと、ようやくバスは目的地スラトへ到着する。

 時計を見ると深夜の23時を過ぎていた。

 周囲は暗く人影もまばらだった。

 

 疲れはてた私は、バスの運転手にこの時間で泊まれる宿がないかを相談し、一軒の安宿を紹介してもらうことになった。

 彼に案内され訪れた宿は、明らかに肉体労働者が泊まる簡易宿泊施設だった。

 玄関から入ってすぐ相部屋になっており、部屋の電気は既に消えていた。

 リキシャーやバスの運転者が暗闇の中でベッドに横たわり眠っている。 部屋には汗と埃の臭いが充満していた。

 

 私は彼らの中に混じって一緒に泊まる勇気はなかった。

 「割高でもいいので個室を取れないか」

 マネージャーに頼んでみると、彼の使っている部屋を案内された。

 

 崩れるようにベッドに横たわり、長かった一日を回想する。

 思いがけないことが起こってしまう国である。

 そして自分の思い通りにならない国である。

 やはり、インドは一筋縄ではいかない。

 

 

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