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風の谷

 イスラムの教典であるコーランは「旅人に施せ」と説いている。

 アッラーの教えが行き届いているお陰であろう。

 パキスタンの旅では行く先々で好意を受けた。

 チャイや食事をおごって貰うのは日常茶飯事で、高級煙草まで貰った

こともあった。

 そして彼らはそれを、実に嬉しそうに私に与えるのである。

 

 バス移動の休憩中に、何度もチャイや食事を御馳走してくれる男がいた。

 しかし、なにか彼が潤んだ目で私を見るのが気になっていた。

 バスに乗っていると背後からの視線を感じる。

 後ろを向くと、彼が私に向かってウインクをしていた。

 背筋が寒くなった。

 彼がバスを途中で降りた時は、心底ホッとして胸をなでおろした。

 

 パキスタンに入国して女性の姿を見かけない。

 街を歩く人は男性ばかりが目に付く。

 たまに女性を見たと思ったら、チャドルで顔を覆っている。

 

「イスラム社会で抑圧された性は、多くの同性愛者をく生み出している」

以前そんな話を聞いたことがあった。

 先ほど出会った親切な彼も、そのような人だったのかもしれない。

 

「アッラーアクバル」(神は偉大なり)

 街を歩いていると、モスクからアザーンと呼ばれる読経が聞こえてくる。 私はそれらイスラムの文化に全く興味を示さない。

 ひたすら桃源郷に向かい、一直線に進んで行った。

 

 国土を北上するにつれて、途中の景色から草木がほとんど見えなくなっていく。

 やがて白い巨大な岩山が視界全体に広がり、単一色の世界がしばらく続いた。

 バス移動は思ったよりも道路状態がよく、国境を越えて4日目で目的地に着いた。

 

 

 その村はカラコルム山脈に抱かれた渓谷に、まるで隠れ里のように

存在していた。

 小さな村には杏の花が咲き乱れ、緑が溢れていた。

 村の女性達は誰も顔を隠していない。

 彼女達の瞳は青かった。

 アレキサンダー大王の遠征軍の末裔という説があるそうだ。

 

 澄み切った空気と、谷に吹き込む冷たい風が心地よかった。

 遠くに見えるラカポシの山並みは抜群の眺めだ。

 評判通り、フンザは風の谷だった。

 

 

1999年6月6日

Hunza Valley(Karimabad),Pakistan  

 

 ここでは欧米人や日本人旅行者の姿を多く見かけた。

 観光地として知られてきたフンザであるが、私にはまだ低俗化を免れているように見えた。

 村人達の性格もあるのだろう、村全体が牧歌的な雰囲気を残しているように感じた。

 

 私が泊まった宿は日本人の長期旅行者が多く、客同士とても仲がよかった。

 興味や価値観が共有できるというのか、彼らと話がとても合うのだ。

 旅行好きというより、旅が好きといえばいいのだろうか。

 旅好き同士が集まっての会話は、時間を忘れるほど楽しかった。

 

 素晴らしい景観。

 穏やかな村人達。

 心を許せる旅の仲間。

 桃源郷のあまりの居心地のよさに、滞在がどんどん伸びていった。

 

 

 

 

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