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異文化の洗礼

1999年1月15日  Bangkok,Thailand

 

 ドンムアン国際空港に降り立った瞬間、熱帯特有の湿った生ぬるい風に包まれる。Tシャツが瞬く間に汗でじっとりとにじみ、南国タイに来た実感が湧いてきた。

 

 果たして叔母の兄は出迎えに来ているのか?

 到着ゲートを抜け周囲を見渡すと、私の苗字を書いたボードを持った中年男性と目が合った。

 私が叔母の写真を見せ日本から来ましたと片言の英語で言った。

 うんうんとうなずく。

 この男性が叔母の兄だと確認できた。

 飛行機が遅れることは、しっかりと伝わっていたようだった。

 男性は「ナット」と自分を指差し、用意した車で自宅へ行こうと合図した。

 

 高速道路で1時間ほど走り、ナットさんの自宅に到着した。

 家族が笑顔で出迎えてくれた。

 奥さんは見るからに肝っ玉母さんの風貌だったが、タイ舞踏を習っているという小学生の娘さんは、驚くほどの美少女だった。

 

 ナットさんは自動車整備が本職で、自宅の1階は工場になっていた。

といっても、車2台分の作業スペースしかない小さな工場だ。

 家の調度品を眺めながら、ここは決して裕福ではないと思った。

 

 一息ついたあと、叔母から頼まれていた土産をナットさんに渡した。

 まず叔母の写真を数枚と現金3000バーツを渡した。

 

 「きのこの山」や「たけのこの里」「小枝」

 これはいったい・・・?

 日本のコンビニで100円前後で買える菓子である。

 これを10個ほど土産として持たされたのだ。

 

 叔母によると日本の菓子は味のレベルが相当高いので土産として持っていくと必ず喜ばれると断言していたが本当なのだろうか。 

「コプクン・カップ」(ありがとう)

 ナットさんは言い、叔母の写真を目を細めながら見ていた。

 どうやらお土産を喜んでくれているようだった。

 

 安心したのは束の間で、早速カルチャーショックの洗礼を浴びてしまう。夕食の時間になったが、香菜(パクチー)の匂いと香辛料の辛さに全く適応できず、出された食事をほとんど食べることが出来なかった。

 また砂糖やナンプラー・香辛料を交互にかけながら食べるタイ独特の食事作法もなじめなかった。

 

 トイレで用を足したあと紙がない事に気づき目が点になる。

トイレ横の蛇口からカップに水を汲み、お尻に水を流しながら手で直接汚れをふき取らないといけない。最初は要領がわからず途方にくれた。

 トイレの天井にはヤモリが張り付き、用を足している最中にヤモリと目が合い、動揺した。

 

 何と言っても一番困ったのは言葉だ。

 家族の誰も英語をほとんど理解できず、タイ語だけで意志の疎通をしなければならなかった。

 念のため持って来た「タイ語会話帳」が、ここで大活躍した。

 

 会話帳を見ながら発音し、会話を試みたが全く通じなかった。

 タイ語には声調があり、同じ単語でもアクセントやイントネーションで意味が変ってくる。

 発音をあきらめ単語を指差し、自分の意志を伝えることにした。

 指差した単語を彼らに発音してもらい、自分がその真似をして言葉を覚えるようにした。

 彼らは面倒くさがって自分から会話帳を開くことはめったになかった。 私に何か伝えたいことがあるときは全てタイ語で話しかけてきた。

 単語帳と悪戦苦闘しながら、何とか滞在中にインド大使館へ出向き、ビザを取得したいことを伝えた。

 

 翌日は観光名所ワット・ポー寺院に案内してもらい、翌々日にインド大使館でビザの申請を済ませたあと、アユタヤ遺跡に行った。ビザは発給に一週間かかるとのことだった。

 

 観光にはナットさんの友人夫婦も加わった。

 陽気な彼らの笑顔を見ていて、言葉がわからなくても彼らと一緒にいることに幸福感を感じた。

 タイに来てよかったと思った。

 

 滞在が4日目を過ぎ、いくら陽気なタイ人でも四六時中遊んでいる訳ではないことがわかってきた。

 ナットさんは自動車整備の仕事に戻り、娘さんは学校へ登校していった。奥さんも家事で忙しそうだった。

 

 私だけが暇を持て余していた。

 TVを付けると、いつもどこかのチャンネルでムエタイの試合を放送していた。

 一人部屋にポツンと居残り、ただぼんやりとTVを見る。

 それが私のタイの日常だった。

 

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