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せっかく海外に来ているのに、家で留守番ばかりだと気が滅入ってくる。

「一人で外出したいのですが」

ナットさんに何度か頼んみたが、返事は決まっていた。

「アンタラーイ」(危険)

 どうしても一人で外出することを許可してくれなかった。

 彼は預かっている外国人が、滞在中にトラブルに遭遇するのを恐れていた。奥さんは「この家の居心地が悪いのかい」と悲しい顔をした。

 彼らが外出を許可しないのは立場上仕方ないのかと思い、わがままを言うのをやめた。

 

 暇を持て余す私。家事を終えた奥さんが、いつも話し相手だった。

 といっても、彼女がタイ語で一方的に早口で話しかけてくるのをウンウンと聞いているだけだ。

 ほとんど内容が理解出来ないので、彼女の口調や表情を見ながら、相槌を適当に打って、ごまかしていたのだった。

 

 タイで暮すインド人が多いことを私は叔父から聞いていた。

そこで彼女がインドに対して、どんな印象を持っているのか、聞いてみた。

 「インド人のワキは・・・臭い」

そう言って右手を上げ、左手で鼻をつまんだ。 

 とんでもないことを言い出したので、二人で大笑いする。

 

「インド旅行して危険だと思わないわ」

彼女が言ってくれたので、私は気分がとても楽になった。

  いつもは陽気な奥さんだったが、やけに深刻な顔で話しをする。

気になったので会話集を手渡すと、「糖尿病」を意味する単語を指差した。

 

 夕方になると今度は娘さんが学校から戻り、私の相手をしてくれた。

 彼女はかなり厳しいタイ語の指導教官だった。

「違う。こう読むのよ!」

 私の発音の拙さが気になるようで、発音をひとつひとつ訂正するのだった。

 訂正の度に「どうして、こんなに簡単な事ができないの?」という顔をされ、私は困ってしまった。

 

 娘さんはいつもチラシの裏に落書きを描いていた。

彼女の落書きを見て、絵を描くのが好きでたまらないという衝動が伝わってきた。

 私は日ごろのお礼として、彼女へのサプライズを企画した。

 

  ある日の日中、奥さんが買い出だしに出かけることを聞き、私も付き添った。文房具店に寄ってもらい、画用紙とクレヨンを買った。

 学校から戻った娘さんに画材を渡すと、彼女は驚いた顔を一瞬見せた。

 

 私の会話帳を手に取ってページをめくりながら

「明日」「学校」「持っていく」「友達」

 単語を指差し、にっこりと微笑んだ。

 こちらの気持ちが通じたと感じ、嬉しかった。

 

 滞在が長くなり、お互いの情が移ってきたと感じていたのだが、不意打ちのようにタイ人の心が見えなくなる出来事があった。

 一人で留守番をしていた時に、ふと居間の冷蔵庫が気になり無断で開けてみた。

 中には土産で渡した日本の菓子が入っていた。

 菓子箱の封が切られ、中身が半分ほど減っているのを確認した。

 私に内緒でこっそり食べているのだろうかと思い、不思議な気分になった。

 そして、少し悲しかった。

 

 一人でいる時間が多いと、どうしても自分自身と向き合うことになる。

 自分は外国まで来て何をしているのだろうか、と情けなさが募ってくる。

 

 ナットさん一家は日常を生きていた。

 私だけがTVをぼんやりながめながら、無為に一日を過ごしていた。

 彼らの生活を見ていて、私は日本での慌しかった会社員時代を思い出していた。

 

 日本人もタイ人も普通の人たちは、毎日が生活に追われ忙しい。

 この当たり前の現実は重かった。

日常を生きる

 

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