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法王と説法

 私はインドに戻り、北部の町ダラムサラを目指していた。

 乗っていたバスの窓には水滴がつき始めた。

 外を眺めると雨が降りだしている。

 とうとう雨季が始まったのだ。

 

 ダラムサラに行く目的、それは法王がどのような人なのか、直接この目で確かめることだった。

 しかも運がいいと謁見できるという。

 

 法王、ダライ・ラマ14世。

 国を失った流浪の民、チベット民族の最高指導者だ。

 チベット動乱の後インドに亡命した、活仏といわれるカリスマである。

 謁見はさすがに無理かもしれない。

 だとしても、彼の説法は機会があるなら見てみたいと思った。

 

 ダラムサラは、チベット亡命政府の本拠地だ。

 チベット人も多く居住しており、チベット仏教の影響を街のいたるところで見かけることができる。

 街角にはマニ車が置かれ、地元民がマニ車を手回ししながら祈りを捧げるのが日常の光景である。

 当然ながら、エンジ色の僧衣をまとったチベット仏教の僧侶をよく見かける。

 

 政治的・思想的な理由があるのか、やはりダライラマ法王が目当てなのか、それとも単なる冷やかしなのか。

 判然としなかったが、この街は欧米人旅行者に大変人気があった。

 こうした旅行者の多くがヒッピー風の個性的な風貌で、その彼らを見込んだレストランやホテルが街中に乱立していた。

 どこを歩いてもフリーチベットのポスターがいたる所に貼られており、

あるレストランでは亡命チベット人の手記を翻訳したレポートが置いてあった。

 

 ダライラマは世界的な著名人であり多忙な人なので、ダラムサラを不在にすることも多い。

 到着した日のちょうど1週間後に法王の誕生日を祝う記念法要があるというので、滞在の延長を決めて彼の説法を生で聴くことにした。

 サイババの時とは違い、今回はタイミングに恵まれた。

 1週間の滞在は全く苦にならなかった。

 何故なら、ここではチベット料理を毎日安く食べることができるからだ。

 

 旅行中の食事をどうするかは、かなり重要な問題だ。

 インドでカレーばかり食べていると、たまには他の料理を食べたくなる。 中華レストランはどこの街にいってもあるし、食べてみれば大きなハズレはない。ただし値段が高いので滅多に行くことはない。

 パスタなどの欧風料理もあることはあるが、もっと高いので論外である。やむを得ずカレーばかり食べることになる。

 ところがチベット料理は日本人の味覚にとても合うし、しかも安い。

 だからカレーに飽きた旅行者にとって、ここは離れられなくなる魅力があるのだ。

 

 

1999年6月30日

Dharamsala, Himachal Pradesh, India

 

 そして一週間が経過し、法王の説法の日が訪れた。

 会場には地元チベット人の他、ジャーナリスト、旅行者など多くの聴衆が集まり、熱気の中で法王の登場を待っていた。

 

 やがて法王は現れ、甲高い声で説法を始めた。

 聴衆は彼の言葉に耳を傾ける。

 英語の同時通訳を聞いていて、法王は世界平和を訴えていることがわかった。

 

 一週間も待って楽しみにしていた説法だったが、周囲に気になる人達が何人かいて、気が散ってしょうがなかった。

 後ろに座っていた白人は胡座ができず、足を伸ばして私の体に当ててくるし、前に座っていた日本人女性は様子が変だ。

 

 よく見ると、日本人女性の恋人と思われる白人男性が彼女の隣に座っており、彼女の耳元で何かを小声で囁いている。

 やがて白人は彼女の背中に手を回すと、いきなり彼女のシャツの後ろ側をめくり、自分の手をその中に突っ込んだ。

 その手の動きは乱暴なものではなく、いたわるように彼女の背中を優しく触り続ける。

 彼女の顔は赤く染まっていき、彼女から押し殺すような喘ぎ声が漏れてくる。

 彼女は声を上げそうになるのを必死にこらえているのだ。

 法王が説法している間、彼女は終始白人に愛撫され悶えまくっていた。

 

 前に座っていた女性の様子が気になり、私にとっての説法は、うわの空で終了してしまった。

 

 

 とりあえず当初の目的は達したし、いつものように他の町へ移動しようと思ったが体が動かない。

 まさかこの後さらに、ここで1週間も滞在するとは夢にも思わなかった。

 

 この街には不思議な吸引力があった。

しかし旅行者を惹きつける魅力とは一体何なのか、当時はわからなかった。

 わかったことは、ここはダライラマ法王が住んでいるという一種の聖域にもかかわらず、住んでいる人達も、訪れる旅行者も、俗っぽいというか人間くさいということだ。

 

 まるでここが聖界と俗界の狭間にあるような印象が残っている。

その聖と俗の絶妙なバランスが魅力だったのだ、と今は思っている。

 

 

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