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1999年7月某日

Dharamsala, Himachal Pradesh, India

 

 長雨が毎日続いていた。

 街も人も濡れていた。

 空を見上げても雨雲しか見えない。

 太陽が顔を出す気配が感じられないと、心も晴れてこない。

 

 ダラムサラは長期滞在する旅行者が多かった。

 高地にあることで気温が低く、避暑地として最適だからだ。

 首都デリーにも比較的近い。

 食事面においても、チベット料理のレストランが多いのが魅力だ。

 

 雨のせいか、私は行動的になれなかった。

 食事のときに外出して街歩きする他は、部屋で何をする訳でもなく

ボンヤリと過ごす日が多かった。

 朝起きて晴れていたら出発しようと思っていても、肝心の天気が

なかなか回復してくれない。

 

 そうやってズルズルと宿に長居しているうちに、日本人旅行者の

宿泊客が次第に増えていった。

 旅行者達は魅力的な面白い人たちばかりで、彼らと話をしていると

雨で鬱屈としていた気分が紛れてきて、なお一層ここから立ち去るのが惜しくなっていった。

 こうした諸々の事情で、私は二週間もダラムサラに滞在する事になってしまう。

 

 

 泊まっていた安宿のドミトリーで、イスラエル人の若者と知り合った。

 彼は3年間の兵役を終えて旅をしている最中だと語った。

 兵役後1年間は自由に世界を旅をしてこいと、家族や親戚全員が

応援してくれるのだそうだ。

 

 彼とアドレス交換をしてメモを渡そうとすると、Hotmail(ホットメール)の話題になった。

「アドレスなんて持っていないよ。パソコンの事はわからないんだ」

 パソコンが苦手な私は、フリーメールサービスが何なのか全然知らずにいたのだ。

 

「今すぐ自分のアドレスを作るべきだ」

 彼は力説する。

「作成はとても簡単、しかも無料だ。僕がアドレスの作り方を教えてあげるよ。世界中にあるインターネットカフェで、自分の居場所を友人達へ発信できるし、メールの受け取りもできる。旅行者同士で情報交換もできるんだよ」

 彼の助言に素直に従い、私も自分専用のメールアドレスを作ることに

した。

 

 今でこそフリーメールサービスは当たり前だが、旅行した当時はまだ

黎明期で、バックパッカーの間でHotmailは画期的なサービスとして

注目されていたのだ。

 欧米人旅行者間での連絡にHotmailを使うのは、すでに常識となっていたようである。

 手紙よりも断然速く届き、送受信がどこでもできるメールサービス。

 これを知ったことによって、間違いなく私の旅は自由度が広がった。

 

 ドミトリーには他にも興味深い人がいた。

「君は日本人か?俺も日本人だ」と意味ありげに笑う男。

中央アジア(聞き慣れない国名だったため失念)からインド旅行に来た

という白人。

 彼は何故か日本国籍のパスポートを持っていた。

 顔写真は確かに男の顔だったが、完全な日本人とわかる名前と住所が漢字の筆跡で書かれていた。

 本籍が秋田県と書いてあったが、もちろん彼は一言も日本語が話せなかった。

 盗難パスポートを加工して使用しているのは明らかである。

 聞きたいことは山のようにあったが、本当のことは彼は話さないだろうと躊躇してしまい、結局話を聞きそびれた。

 彼は自分のベッドで、マリファナをプカプカやるのが常だった。

 

「よゥ、元気か?」

「どーも」

 同じ場所に長く滞在していると、気軽に挨拶や世間話をする顔なじみが増えてくるものだ。

 隣近所で営業していた安宿のマネージャーも、そんな一人だ。

 

 彼から面白い話を聞かされる。

「いやー参った参った」

 何があったのか、聞いてみる。

「今日は一日中、ずっと汚れた部屋の掃除さ。大変だった」

「何故そんなに汚れたの?」

「客の一人が自分の漏らした糞を、顔や壁に塗りたくって暴れたんだ」「えーっ!!」

 どうやら、欧米人がLSDを服用して錯乱したらしい。

 

 

 長期滞在中の旅行者たちは、思い思いの方法で時間を過ごしていた。

 一日中、大道芸のジャグラーを練習する人。

 ギターの弾き語りをする人。

 読書をする人。

 チベット仏教を学んでいる人。

 チベット医学を学ぶために、語学学校に通う前向きな人もいた。

 ひたすら横になり眠っている人。

 そして麻薬に耽る人。

 

 街の周囲を観光する人は誰一人いない。

 観光にも飽き、旅そのものにも飽きているようにも見えた。

 そして、もちろん私も例外ではない。

 旅は沈滞していった。

 

 降り続く雨は、止みそうもなかった。

 

 

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