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再訪

 

1999年11月9日

Puno,Peru

 

「ねえ、もっと遊んでー!」

 娘さんのナタリーちゃんは、なかなか解放してくれない。

 まだ3歳、元気いっぱいだ。

 それを見ていたフリオさん。

「アー、日本に帰リタクナイー?」

 わざと片言の日本語を言って、笑っている。

 

 帰りたい、でも帰りたくない。

 揺れ動く心。

 そんな私の心を代弁するかのような台詞に、思わずドキッとする。

 

 

 プノに戻ってきた私は、再度フリオさん宅にお邪魔していたのだった。

 私がいつまでここにいるのか、気にならないのか。

 しかし彼らは野暮なことは一切聞かない。

 私に金がないことが、わかっているようだった。

 

「あなたのセーターかなり汚れているわ。洗濯してあげる」

 カルメンさんに催促されて、セーターを脱いだ。

 代わりに渡されたフリオさんのセーターに袖を通す。

「アラ、似合うじゃないの?いい感じよ」

 お婆ちゃんが目を細めて私を見ている。

 2、3日のつもりだった滞在が、どんどん伸びていく。

 

 

 滞在4日目の昼食中、カルメンさんが妙な事を言い出した。

「ちょっと付き合ってほしいところがあるの」

 

 ?・・・一体どこへ行くんだろう。

 彼女に付き添って行った場所は、児童が走り回っている小学校だった。

 校内に入ると校長とおぼしき上品な老婦人が現れて、二人は長い間話し込んでいる。

 私は少し距離をおき、二人のやりとりを眺めていた。

 不機嫌な表情で彼女が帰ってきた。

「なんだかんだ言い訳して、お金を返さないのよ」

 

 フリオさん夫妻が日本での出稼ぎを終えて故郷プノに戻ったあと、周囲から借金の申し入れが多くあり、情け深い彼らはその申し出に応じていたようなのだ。

「まったく困ったものだわ」

 彼女は今、借金の取り立てをしているのだ。

 

「次行くわよ」

 自転車タクシーに乗った二人は、夜になったフリアカの街を疾走する。

 カルメンさんは険しい顔つきで洋服店に入っていった。

 彼女は店長と短い会話をかわしたあと、子供服ばかりを物色して集めていく。

 私は大量の子供服を両手に抱えた。

 店長は黙って、その光景を見つめ、なすがままに任せている。

 彼女は払えない借金の肩代わりとして、子供服を押収していた。

 

 

 滞在5日目。

 この日は近所に住む親戚同士が集まり、一緒に会食をする予定だと聞いていた。

 カルメンさんが電話で、その打ち合わせをしている。

 「NO!」

 彼女が強い口調で話をしているのが気になってくる。

 何か様子がおかしい。

 見ていると、どうも彼女が無理を言っているようなのだ。

 

 親戚一同が向かったのは、プノ近郊のシルスタニ遺跡だった。

 せっかくのピクニックだったが天気に恵まれず、アンデス高原には強い風が吹いていた。

 

 現地に到着し親戚の男連中と挨拶をするが、彼らは私に対して友好的な雰囲気が感じられなかった。

 気分が沈んでくる。

「こっちに、いらっしゃい」

 それに比べると、御婦人連中は私に優しい。

 南米では、いつも私は女性たちに情をかけられているのだった。

 

 

 散策を始める。

 インカ帝国時代の墳墓群が、崩れかけた状態で並んでいた。

 見晴らしのよい高台から遠景を望む。

 アルティプラノ(アンデスの高山地帯)特有の、荒涼とした風景が視界に広がってくる。

 

 寂寥感漂う、シルスタニ遺跡。

 彼らはこれを見て、どのような感慨を持っているのか・・・

 

 枯れた物や滅びた物を見て、美しいと感じる感覚。

 わびさび。

 無常。

 

 この遺跡を見ていると、自分が持つ日本人としての美意識と、どこかで相通じるものを感じるのだった。

 これが彼らの原風景なのだろうか・・・

 

 カルメンさんが私の横に並んだ。

 彼女の長い髪が、風で揺れている。

「この景色を、あなたに見せたかったのよ」

 満面の笑みで私を見つめた。

「えっ!?」

 まさか・・・私のために行き先を?

 

 

 滞在6日目が最後の夜になった。

 食事の最中に、彼らに丁重にお礼を言う。

「この御恩は、一生忘れません」

 昨夜丸暗記して覚えたスペイン語だった。

「なんだ、ずいぶん堅いことを言うなあ。気にするなよ」

 こんなことは当然だろう、と言わんばかりだ。

 フリオさんは笑ったあと急に真顔になり、こう言った。

「実は、また日本に行こうと思っているんだ。今度は俺一人で」

 

 

1999年11月15日

Puno,Peru

 

 

 出発当日。

 カルメンさんがバスターミナルまで付き合ってくれた。

 バスの前で、彼女が1枚のメモ紙を私に手渡した。

「気をつけて帰るのよ。困ったことが事あったら、ここへ電話してみて」

 メモ紙には詳しい住所と電話番号、ある男性の名前が書いてある。

「父がリマで暮らしているの。きっと助けてくれるわ」

 

「本当にありがとう、みなさんによろしく」

 私はバスに乗り込んだ。

 シートに腰を沈め、車窓から彼女の笑顔を見ていると、自然と涙が流れてきた。

 

 なんで・・・なんで・・・ここまで優しくできるんだろう。

 次から次へと涙が溢れて止まらなかった。

 

 やがてフリオさん一家の底なしの善意に対する感謝の念と、自分への情けなさが入り混じった、巨大な感情の波が押し寄せてきた。

 

 私は号泣した。

 子供のように大粒の涙をこぼし、大声で泣きわめいた。

 感情が制御できない。

 

 周囲の乗客が驚いて私を見ている。

 嗚咽が止まらない。

「ありがとう、ありがとう・・・」

 カルメンさんがバスに乗り込んできて、私の背中を優しくさすった。

まるで母親のように。

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