SPICE CURRY & CAFE
SANSARA
スパイスカレー&カフェ サンサーラ
人の波
1999年1月31日
Kolkata, West Bengal, India
どこからともなく香辛料の香りが漂ってくる。
到着したダムダム空港は、本当に国際空港なのかと思うくらい雑然とした雰囲気だった。
イメージ通りの民族衣装のサリーをまとった女性やターバンを巻いた男を多く見かけ、インドへの期待感が高まっていった。
やがて期待よりも不安が高まっていくのを感じた。
荷物を運ぶポーターは誰もが身なりが汚なく、全員が泥棒に見えてくる。
日本やタイの空港の清潔感と比較し、軽いショックを受けた。
いきなりハプニングが発生した。
いつまでも待っても機内に預けた荷物がベルトコンベアから流れてこないのだ。
不審に思って周囲を見回すと、前方を歩いてるポーターが何気なく荷物を担いでいた。
それはまぎれもなく私のバックパックだった。
「ヘイ!それは私のバッグだ。」と強引に奪い返す。
一体あのバックパックを奴はどうするつもりだったのだろうか。
両替所で日本人旅行者と出会った私は、そのまま同行し地元客相手のバスに乗り、その旅行者と有名な安宿街であるサダルストリートに向かった。
バスはうなりを上げ、猛烈なスピードで走り出した。
運転手は派手なクラクションをかき鳴らし、カルカッタの街を疾走していく。
バスの車内は隙間がないほど人でビッシリと埋まり、車掌は芸術的とも思えるような身のこなしで人ごみをかき分け、乗客から運賃を徴収していった。
安宿街・サダルストリートについて早々、路上で生活している家族を見て度肝を抜かれる。
乞食がいきなり近づいて手を差し出してくる。
バクシーシ(喜捨)を寄越せ、ということらしい。
インドに到着するなり、目の前で次々と色々なことが発生していく。
頭の中がパニック状態になり、どう対応していいかわからない。
乞食から逃げたあと、私はガイドに載っていた安宿を探しあて、そこのドミトリーに泊まることになった。
ドミトリーは病院の大部屋が一番イメージしやすいと思う。
相部屋なので、プライバシーはない。シャワーもお湯はなく水だったし、トイレも汚かった。備え付けの毛布はなく、泊り客は寝袋を使用していた。
ただ安いだけで悪条件の揃ったドミトリーを何故利用するのかといえば、相部屋で一緒になった旅行者同士で情報交換するという点が魅力なのだ。
幸運にも私の隣は日本人だった。
彼は対面のベッドで横たわっている欧米人男性へ視線を向け、つぶやいた。
「あいつは・・・ウンコマンと呼ばれている」
欧米人の履いていた白色のタイツは、お尻全体が黄色くにじんでいた。 インドは水が悪く体調を崩す人が多いと聞いていたから、食あたりで脱糞して汚してしまったのだろうと想像した。
隣の日本人は街歩きに飽きているのか、ベッドから動く気配がなかった。
ベッドの上でじっとしているより、心細くとも一人で動こう、と決心する。
緊張した面持ちで付近の散策を始めた。
意外にも2月のインドは肌寒く、長袖シャツにジーンズの格好で歩いても汗をかかなかった。
私が観光客だとわかると、ハエが群がるように次々と人が寄ってきた。
ジュース屋の親父「うまいから飲んでいきな」
雑貨屋の少年「絵葉書 1ルピー買ってくれないか」
麻薬の売人「マリファナ、ハシシ・・・あるぞ」
リクシャー男「ミスターどこへ行く?乗っていきな」
そして乞食「あなたさま、お恵みを・・・」
とてもじゃないが、一人一人相手する余裕なんてなかった。
インドでは誰もが生命力に満ち溢れ、私はその生命力に飲み込まれそうな気分になっていた。
私はカルカッタの雰囲気に、完全に圧倒されていた。
人、車、騒音・・・
まるで洪水のようだった。
街歩きを続けていると、怪しい中年男がしつこくまとわりついてきた。
「どこへ行くんだ?俺が街を案内してあげるよ」
最も警戒すべきで、近寄ってはいけないタイプの人間だった。
「インドの映画を見たいんだけれど・・・」
極度の疲労状態にあった私は、つい答えてしまった。
お安い御用とばかり映画館に連れて行かれ、男の知り合いが営んでいるという路地裏のチャイ屋へ行くことになった。
チャイを飲みながら、どうしても聞きたかった質問を男にぶつけた。
「旅行者に飲食させたあと睡眠薬で眠らせ金品を奪う強盗がいるらしいが、どう思うか。何故私にこれほど親切なのか」
「違う。もし俺が強盗なら、もっと早い段階で薬を盛るよ」
男はもっともらしく反論する。
「この君に対する親切は、友情の証なんだよ、マイフレンド!」
力説していたが、動揺しているようにも見えた。
これ以上の深入りは危険だ。
頭の中で警告アラームが鳴り始める。
チャイはほとんど飲めなかった。
男はこの後食事と酒を一緒にどうだと誘ってきたが、きっぱり断ると無理強いする訳でもなく、残念そうに握手をして去っていった。
彼は一体何のために私に近づいたのかと考え、頭の中が混乱した。
疲れはてた体で宿に戻り、事の顛末を隣の日本人に話した。
「・・・そう」
彼は意味ありげに小さく笑った。
私はベッドに横たわり、部屋のポスターをじっと眺めた。
ポスターには破壊と殺戮の女神・カーリーの絵が描かれていた。
漆黒の肌の女神は髑髏の首飾りをし、口から血を流し笑っている。
カーリーが私をあざ笑っているように見えた。
始めて訪れたインドの衝撃は噂以上のものだった。
インドの街も、出会う人も、私の身も心も全てが混沌状態だった。
あまりにも非日常な出来事が起こるインドに対し、私はすっかり恐怖心で怖気づいてしまい、今後インドの旅を続ける自信がなくなっていた。
しかし、それでも私はインドを去る前にガンジス河だけは見ておきたかった。
気力を振り絞り、翌日バラナシ行きの寝台列車を予約した。
インドの旅はガンジス河の街・バラナシで終わるもの、と信じて疑わなかった。