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忍び寄る病魔

1999年2月12日  

Pokhara, Nepal

 

  ポカラはアンナプルナ連峰へのトレッキングの拠点となる町だ。

風光明媚な田舎町と聞き、ここで少し静養ができると思っていた。

しかし、期待は大きく裏切られた。

 

 ポカラも観光地化が進んでおり、その代償として人間がすれてくるのか自称ガイドが多かった。

 頼みもしないのに勝手に私の後をついてきて、ガイド料を請求してくる。彼らはインド人より押しが弱いのが救いだが、ポカラに対する失望感が次第に広がっていく。

 金は払わないと拒否すると、「私とあなたの靴やズボンを交換しよう」と言いだしたので困惑する。

 

 物々交換はこの辺りでは一般的のようだった。

同宿の旅行者から、物々交換でアクセサリーを手に入れた話を聞いた。 私も早速、行商人のチベット人女性に声をかけ、交渉してみた。

交換が成立したのは、私のTシャツ2枚と木製の数珠が1個だけだった。 交易の民チベット人は相当手強い、と思った。

 物々交換は興味深かったが、ポカラに見切りをつけカトマンズに向かった。

 

1999年2月27日

Kathmandu, Nepal

 

首都カトマンズはヒマラヤへ向かう登山客や、インドの旅に疲れたバックパッカーが集まってくる。

 街中に点在するヒンドゥーの寺院もエキゾチックで情緒があり、外国人観光客に人気だ。

 

 私のカトマンズ滞在の最大の目的は観光ではなく、日本食レストランだった。値段は法外だが味のレベルが高いと評判だった。

 ネパールにもダルバートと呼ばれるカレー定食があり、安いのは知っていた。

 しかし、その時の私は体調が今ひとつだったこともあり、毎日カレーを食べる生活は精神的につらいものがあった。

 そんな状況で日本食の誘惑に勝つのは容易ではない。

 メニューにカツ丼、オムライス、しょうが焼き定食まであるのだ。

高いとわかっていても毎日のように通いつめ、散財してしまった。

 

 私はネパールの旅を今一つ楽しめない状態にいた。

 体調が常に不安定で苛立っていた。

 にもかかわらず、大人しくしているのは損とばかり周囲の町に足を伸ばした。

 ネパールの古都と呼ばれるパタンに赴き、ナガルコットでヒマラヤをバックにティータイムを楽しんだ。

 バスを乗り間違えて目的地ではない山間の小さな村に到着し、慌ててカトマンズに引き返したこともあった。

 私は市場へ出かけ、地元の若者と焼き鳥を食べ、酒場へ出かけて蒸留酒を飲んだ。

 

 本来であれば、腰を据えてしっかり静養すべき時だった。

 あれは時の流れに逆らう行動だったのだ。

 精力的に各地を動き回ったつけが回り、バラナシでひいた風邪がぶり返した。

 体調が日増しに悪くなり、精神的に不安定になっていくのがわかった。

 

 カトマンズの街は排気ガスがひどく、大気汚染が深刻な社会問題になっていた。

 道行く人も観光客も防塵対策のためマスクをしていた。

粉塵を甘くみてマスクをしなかった私は喉を痛め、風邪の症状がさらに悪化していった。

 

 そして恐れていた事態がとうとうやって来た。

 夕食でプリンを食べたあとに猛烈な嘔吐と下痢に襲われる。

 部屋とトイレの往復がしばらく続き、やがて脱水症状で動けなくなっていった。

 食欲が全くなくなり尿が出なくなっていた。

 一日一回だけ気力を振り絞ってオレンジやバナナといった果物を買出しに出かけたが、それ以外の時間はベッドに横たわる日が続いた。

 

 日時の感覚が麻痺してきたのを自覚した。

日記帳を見てみると、まる4日間、果物と水しか摂取していない事がわかった。

 トイレにも全く行かなくなっていた。

 

 これは、マズイぞ・・・

生まれて初めて死を意識した。

 

 窓の外に視線を向けると、マオイスト(毛沢東主義者)が広場でアジ演説を行い、周囲が騒然としているのが見えた。

 スピーカーから流れる街頭演説の声で、私の頭は割れそうだった。

 最悪の状況だった。

 一刻も早くネパールを出たかった。

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