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 ネパールビザの有効期限が残り3日を切った。

 意識が朦朧とする中、バスに乗り込んだ。

 行先はネパールの東、国境を越えればインド・ダージリンだ。

国境行きの夜行バスは悪路で振動がひどく、車中で一睡もできなかった。

 

 国境で入国審査を終えると、一人の欧米人男性が頭を抱えていた。

「インドの金がなくて移動できないんだよ」

バスが早朝に到着したため両替商がおらず、彼は途方に暮れていたようだ。

 「お困りの様子なのでバス代を貸しますよ」と彼に50ルピーを渡す。「私は何てラッキーなんだ!」と彼は叫び、喜びのあまり私に抱きついた。

 欧米人はドイツからの旅行者らしかった。

本当は彼とたくさん話したかったのだが、体調も悪く最低限しか会話を交わせなかった。

 

1999年3月11日

Darjeeling, West Bengal, India

 

 バスがダージリンに到着した途端、あっという間にホテルの客引きが私に群がってくる。懸命に客引きを振り切っている間に、ドイツ人旅行者とはぐれてしまった。

 

 気まぐれで入った宿のオーナーは親切なチベット人夫婦で、

「今すぐ病院に行きたい」と訴えると、詳細な地図を書いてくれた。

 やっとの思いで病院に辿り着くと採尿を求められ、医師から英語で簡単な問診を受ける。

 「重い病気ではないので、処方した内服薬を飲み安静にするように」「ノープロブレム!」

 診断の結果は拍子抜けするほど軽いものだった。

 

 安心した私は宿に戻り、薬を飲んでベッドで深く眠っていた。

 やがて誰かが肩を揺するのに気がつき、私は目を覚ました。

 寝ぼけながら見てみると、国境で金を貸していたドイツ人だった。

「この周辺にある宿を片っ端から当たって、泊まっている日本人がいないか、ずっと探していた。君に会えてよかった。ありがとう」と財布から50ルピーを取り出して私の枕元に置き、彼は去っていった。

 

 この律儀さはドイツ人の国民性なのだろうか。

 ダージリンの町は私にとって相性が良かったようだ。

 ここではネパール人やチベット人の顔をよく見かける。

 チベット料理のレストランが多いのが助かった。

 モモやトゥクパと呼ばれるチベット風のギョウザやうどんは日本人の私の舌にとても合い、食欲も日を追って回復していった。

 

 紅茶の産地ダージリンで飲むチャイは道端の店でも抜群に香りがよく、今まで飲んだ中では一番おいしいと感じた。

 

 街を歩いていると久しぶりに日本人旅行者の若者と出会い、日本語での会話を楽しむ。

 他愛もない四方山話や身の上話、旅の情報交換と会話は弾んでいった。

 「日本に帰ってどうする?紅茶の輸入なんて面白いかもね」と私が冗談混じりに話を振ると、「自分で人生を決める事なんて僕にはできません。誰かに決められた方が楽だ」と彼は寂しそうに首を振った。

 

 ダージリンで病気療養中だった私に対し、宿のオーナー夫妻は病後の経過を常に気に掛けてくれた。

 早かった体調の回復は、彼らのホスピタリティのお陰だった。

 旅立つ前に宿のロビーに寄ると、備え付けの本棚にあったロンリー・プラネットの背表紙が目に入リ、オーナーに駄目もとで売ってもらえないか頼んでみた。

 

 ロンリー・プラネットは、欧米人バックパッカーが愛用する有名な旅行ガイドだ。

 この本は日本のガイドブックで網羅しない小さな町の情報や地図が充実しており、出来ることなら手に入れたいと考えていた。

 しかし、値段が高いのがネックで、今まで購入をためらっていたのだ。

「以前宿泊客が忘れて置いていった何年も前の古い本だから問題ないよ」

 なんと彼らは無料で譲ってくれたのだった。

 

 私は自分の体調が完全に回復したことを確認し、次の旅行先をダージリンよりさらに北のシッキム州に決めた。

 ここは入境にパーミット(許可証)が必要とされる特殊な地域だ。

 秘境のイメージが広がり、どうしてもシッキムへ行きたくなったのだ。

 パーミットの手続きは英語力のない私には難儀な作業で、近くにいたアメリカ人に助けてもらい何とか取得することができた。

 

 再度インドに戻ってみると、私は誰かを世話し、誰かの世話になっていた。

 旅は自分一人でしているのではない、と悟った。

 トラブルがきっかけで人と関わるうちに、旅をすることが楽しくなっていた。

 周囲の物事が少しづつ好転していく兆しを感じた。

 これまで否定的だったインドの印象が、好意的なものへと変わってきた。

 

 インドの苛烈な神々も、たまには優しく微笑むことがあるのかな!?

そんなことを考えていると、笑いが込みあげてきた。

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